園だより(2013年7月)
天の川から富士山へ
夏が来れば七夕があり、天の川が浮かび、悲しい戦没者のわだつみの声が聞こえてくる。以前にも書いた戦地の兄から幼い弟に送った遺書めいた手紙。「昨年の7月7日、持ち慣れない筆をとって形ばかりの七夕を祭り、庭の竹の枝にお母様のために「平癒祈願」と書いた短冊を星空にかざしたことを思い出します。のりはる君、元気で勉強していることと思います。久しぶりで兄さんものりはる君と会いたくなりました。本当に偉い子になりなさい。兄さんはのりはる君のためならどんなことだってします。幸福な日が一日も早く来るように祈っています。今度会える日があったら、最早のりはる君を肩車に乗せて歩くことができないほど大きくなっていることでしょう。その日が楽しみです。本当に元気にやりなさい。体が一番大切。病気なんかしないように。誰にも負けてはなりません。今晩はのりはる君と一緒に天の川の歌を唄いましょう。天の川のこっちには、牛を引くお星さま。天の川のあっちには、機をおるお星さま。七月七日七夕様は、お空のお星さま。さあ、もうやすみましょう。少し兄さんも疲れてねむくなりました。お休み、のりはるくん。」戦争が終わる1年前、昭和19年の7月7日、戦地より家族に送った最後の手紙。母を想い、二度と会えないと心で思いながら、やはりもう一度会いたいと切実に思っている大学生の兄の心情。この年戦死した兄の無念さが19年生まれの私の魂を揺さぶります。運命にゆだねられた環境の中で、精一杯の役割を果たすことで死につながったことを、無駄な死と誰が非難できようか。戦争はどんなことがあっても避けるべきもの、そして最後の、最後の悪魔の手段、しかし彼らの献身的な役割があって今私たちが平和を享受しているのも事実。戦争で死ぬことはないとしても私たちはいつかこの世から消え去るのは絶対的な真理、できるだけそれが来るのを遅らせようとして予防の実践をしようとする。しかし物の価値観をどうだろうか。西欧の諺に「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲むのは馬自身だ」というのがある。いくら医学が発達して病気の予防に大きな貢献があったとしても、本人が前向きな姿勢で取り組まなければ上の馬と同じだ。歩いていて突然雨が降ってきたら大事な服や着物は濡れないように努めるが体は濡れても平気である。車や高額商品、レジャーなどにお金を使っても健康診断や自分の健康を守ることにあまりお金を使わない。最近はだいぶ傾向が変わってきたが、まだ昔からの傾向がみられる。私たちは病気にならない、健康を維持しようと切に願うが、実際の優先順位は車や旅行の後塵を拝する。小さな幼子のためにも優先順位の一位であることが求められる。優先順位といえば、最近富士山の世界遺産への登録が話題になった。外国人がハンマーをたたいて登録を宣した映像が放映された。それに対して日本人が何回も何回も万歳を叫んでいた。日本の象徴の富士山が外国人に認められてそんなにうれしいのだろうか。登録自体は何も反対でないが、少し違和感を感じたのは私だけだろうか。なるほど外国人がたくさん来て日本に利益をもたらし、関係者がハッピーになるだろう。シニカルに考えると富士山は古代から不死の山として日本人に崇められた大きな存在であって、日本人誰でもそれなりの崇敬の念を持って接してきた。そして今や世界中のだれもがフジヤマとして知っている。それは私たちの憧れであり、大きな存在であり、神聖であり、自慢である。外国人が認めようと認めまいと富士山は富士山であり、私たちの態度もまた同じである。それが外国人に強力に働きかけて今更外国人に認められたと言って大騒ぎするほどのものだろうか。返って日本人の富士山に対する思いを浅くみられるのではないだろうか。富士山は凛としているから富士山であって、もし富士山がしゃべることができれば、なんと言うだろうか。確実に「俺のところに来るのはいいが、もっときれいに清潔にしろ」と言うだろう。世界的に認められたから価値があるのではなくて、昔から価値があるから今でも価値がある。